2011年2月1日火曜日

タンゴの分類

なにやら難しいことを書こうとして行き詰ったので、とりあえず皆さんに見てもらって叩いてもらおうとおもって、とりあえず書きます。


ロジェ・カイヨワ(=フランス:社会学者)という人が『遊びと人間』という本の中で「遊びの分類」というものを書いています。


で、その「遊びの分類」というものを使って「タンゴの分類」を探る、という危険な話に入る前に、個人的な前置きをしておきます。

タンゴというのは文化として時と共に変化してきたものであって、人によってはルーツのことをさす人もいれば、歴史的な成り行き全てをさす人もいれ ば、現在の姿や自分の感じているものをさす人もいたりするものであり、アルゼンチンの人からすれば生活の一部であったり、はたまたハレの舞台であったり、 そしてそれは民族の証であったり、芸術であったり、コミュニケーションツールだったり、スポーツであったり、収入源だったり、コレクションだったり、憂さ 晴らしであったり、癒しであったり、懐かしむものであったり、穢れていてフタをしたくなるようなものだったりするということでしょう。

「タンゴ」とは何?と言って誰も答えられないものなので、タンゴを分類しようとみたところでたいした成果はないと思いますが、最近は「タンゴ」と いうものをいろんな人がいろんな意味に使っていて、しょうもないことでぶつかりあって、いつまでも分かり合えないままになっていて、ただでさえ生き証人が 一人減って二人減ってといくこのご時世であるから、自分の立ち位置やお互いの距離感、そして先駆者や先生方や新しいことをやろうとしている人を理解するた めに、何かしら整理しはじめてみようではないかということです。


そういう前置きがあって、自分なりに思いついたのが、「遊びの分類」というものを使って「タンゴの分類」を考えてみよう、ということです。

そもそも「タンゴ」は「遊び」なのだろうか?ということがあります。


☆遊びとは

このカイヨワという人が挙げた「遊び」というものは、『ホモ=ルーデンス』で有名なホイジンハという先人の知恵をベースとして、次のような 6 つの活動のこととしています。

1) 自由な活動・・・強制された活動ではないということ
2) 分離した活動・・あらかじめ定められた厳密な時間および空間の範囲内に限定
3) 不確定の活動・・あらかじめ成り行きがわかっていたり、結果が得られたりすることはない
4) 非生産的な活動・財貨も富も、いかなる種類の新しい要素も創り出さない
5) ルールある活動・通常の法律を停止し、その代わりにそこだけに通用する一時的な約束に従う
6) 虚構的活動・・・現実生活と対立する第二の現実、あるいは、全くの非現実という特有の意識を伴う

ご存知の通りで、タンゴには商業的な側面や学術的な側面がありますので、完全には「遊び」といいきれずに生産的だという性質は忘れてはいけません し、何より現地の人々にとっては生活そのもの、そして現実であるということもまた、タンゴの側面であります。だから、タンゴを「遊び」として考えるとき は、そういう事を弁えて慎重に考えなければなりません。ちなみにホイジンハが「遊び」の反対語として挙げている言葉は「真面目」でした。


☆遊びの分類

肝心な「遊びの分類」は4つに分けられていて、難しい名前ではあるものの、次のようにイメージは分かりやすいものです。

A) 競争(アゴーン)・・・筋肉的性格の競争(スポーツ)と頭脳的性格の競争(パズル・チェスなど)
B) 機会(アレア)・・・・遊ぶ人から独立の決定、遊ぶ人の力が全く及ばない決定を基礎とするもの(サイコロ・ルーレットなど)
C) 模擬(ミミクリー)・・閉ざされた約束事に基づき、自分自身が幻想のなかの登場人物となり、行動すること
D) 眩暈(イリンクス)・・一瞬だけ知覚の安定を崩し、明晰な意識に一種の心地よいパニックを引き起こそうとするものである。


そして、もう一つの概念として、パイディア ⇔ ルドゥスという度合いがあって、簡単に言えばルールで縛られるかどうか?みたいなものです。ルドゥスの方が、ルールでガチガチになっている方です。詳しくは下のページを参考にしてください。

雑誌『談』編集長によるBlog [パイディアとルドゥスという軸は何を示しているのか。]  
http://dan21.livedoor.biz/archives/50441223.html


□「競争」としてのタンゴ

本当か嘘か知りませんが、港町でタンゴが生まれたころに売春婦を取り合うために男がタンゴを踊りあって競争したとかしなかったとか。日本でタンゴ が一世風靡したころのキャバレーではタンゴが一番のトリをつとめていて、一番おいしい思いをするためにタンゴをうまく踊ったとか踊らなかったとか。そし て、最近は選手権のようなものにみんなが夢中ですね。

おそらく生まれた頃のタンゴに見られる競争は、かなり原始的なパイディアな雰囲気があってさながら、オスのペンギンがメスを探しているのと同じよ うな感じだったに違いありません。それが時と共に段々洗練されて、選手権みたいなことになって、「タンゴは優劣をつけるものではありません」と皆言いつつ も、今に至っては、大きな流れとなっているのは間違いありません。ちなみに、検定試験みたいな類のものもありますが、選手権とは違って「競争」というよりは後述の「模擬」に類するものだと思います。

今後見られるであろう「競争」の形態としては、筋肉的な競争と頭脳的な競争の極限でしょう。たとえばずっと昔妄想したのは、以下のようなアホみたいなものでした。しかしながら、果たしてそこにタンゴはあるのか?
http://mixi.jp/view_enquete.pl?id=4022469&comm_id=471691
http://mixi.jp/view_enquete.pl?id=11313470&comm_id=471691


□「機会」としてのタンゴ


カイヨワも言っていますが、機会(アレア)というのは(他の動物には無い)人間ならではの高級な遊びだそうです。ランダムで無秩序なところを楽し むということですが、おそらく場末で誰かがギターなんかで歌いだした曲でたまたまそこに居合わせた人と人が踊りだす、という原始的なサロンというのが思い つく限りの「機会」の楽しみです。タンゴの持つ一期一会の楽しみだと思います。そして、今では少し秩序立って、DJのような人がいてミロンガのような催し が楽しまれるわけです。これ以上のルドゥスは私には思いつきませんが、いかがでしょうか。また、タンゴ・ヌエボに代表されるように、形式を破壊して楽しむ タンゴもあります。これはそれなりにパイディアな気がします。

今後見られるであろう「機会」の形態としては、一期一会の極限と、ヌエボな極限(ムーブメントや音へのレスポンス)でしょう。面白いと思う人がや ればいい、ただそれだけだと思います。しかしながら、果たしてそこにタンゴはあるのか?


□「模擬」としてのタンゴ


真似して喜ぶ、というのは、ミラーニューロンなんかの話も流行っていますが、猿とか鳥だけじゃなくて虫けらにも見られる遊びです。一番の原始的な「模擬」のパイディアは、とりあえず格好いい踊りや 弾き方を真似てみる、歌を真似してみる、というところから、セッションの喜びなどもあったことでしょう。おそらく港町で見られた合唱や合奏の盛り上がり は、タンゴ初期にも関わらず早い発展を見せたので、これが黒人奴隷+西洋器楽の作り上げた奇跡なんでしょう。レコードとして配布されたタンゴが、コレク ションとしての「模擬」、そして形式を模擬して新しいものの需要を作りあがられていったということでしょう。演奏スタイルやダンススタイルというものは言 うまでもなく「模擬」でしょう。そこからオリジナリティを生み出すところはまた別の楽しみかもしれません。それから、忘れてはいけないのは、仮面・変装と しての「模擬」もあります。非日常・非現実を楽しむところも「模擬」でしょう。カイヨワが言っていますが、「模擬」は「競争」と結びつきやすいようです。

今後見られるであろう「模擬」の形態としては、タンゴスタイルのようなものがどんどん名乗り出されるのか、ルーツタンゴの追求か、はたまた非日常 タンゴの追及か、そして、やはり選手権は模擬テストになっていくのか?そして、果たしてそこにタンゴはあるのか?(ついつい最後に毒を吐くくせがついたみ たいです。この場を借りて関係者には予め謝罪しておきます。)ルーツタンゴの追求、良いじゃない。もっとみんなでタンゴセッションみたいなものもやってみ たいでしょう。あ、でも重要なことが埋もれています。サロンを楽しむというところをもっと追求していくのは「模擬」の遊びですから、そこに期待したいで す。カイヨワの定義にある、「演劇」やスペクタクル芸術としてのタンゴが今後芽生えるかもしれません。


□「眩暈」としてのタンゴ


「眩暈」という言葉が強い印象があるので誤解されそうですが、カイヨワによって、パイディアの例に挙げられているのが子供のくるくる回りや回転木 馬、ルドゥスの例に挙げられているのがスキー・登山や綱渡りだそうです。そして中間に位置づけられているのがワルツを踊る、という行為だったりします。原 始的な「眩暈」はどういうものだったか、ミロンガが秩序立つ前の粗野なサロンはかなりの大技が繰り広げられていたそうですね。パッと思いつくでしょうが、今のショーダンスなんてのは「眩暈」に分類されるも のなんでしょう。「機会」にも挙げましたが、タンゴ・ヌエボなんかも新しい「眩暈」ということでしょう。トランス状態という意味で、クラブのようなところ で音楽的な眩暈を追求してみるのも面白いです。

今後見られるであろう「眩暈」の形態としては、単純に考えれば体操・スポーツとしてのタンゴの追求ということになりましょう。音楽としての「眩暈」、そして雰囲気的な「眩暈」を追求していくというのもあるでしょう。しかしながら、果たしてそこにタンゴはあるのか?



未整理で申し訳ありませんが、勝手ながら個人的には書いてみてかなり頭がすっきりしてきました。もっときっちりまとめられる方、大募集です。そしてさらに新しい可能性を見出せる方は各自新しい可能性を追求してください。私はもっとルーツを追ってみたいと思っています。

2011年1月22日土曜日

タンゴの間

空間的な間、時間的な間。

ギターを習ってみて感じたこと。
ギターで作った音楽にはギターの間がある。

サンバを習ってみて感じたこと。
サンバ・ノ・ぺが作った音楽にはサンバ・ノ・ぺの間がある。

日本の古来音楽だって、タンゴだって、フラメンコだって、由来があるものには、そういう間があるはずだ。


そういうものが大事。


そしてそれを解釈する側がどう感じてどう思うか。

日本人だから日本人ならではの生活や言語による学習にもとづく生理的な反応は覆せない。
無理に真似しても心技体が一致しない。

日本人だからタンゴはやるなと言ってる訳ではないが、ブエノスで起きていることを形だけ真似するのは、結果から見ると格好悪い。

日本人らしい表現があって然るべきだと思う。



角田忠信さんという人の書いた「日本人の脳」という本には良いことが書いてある。ある音を右脳で捉えるか、左脳で捉えるか。母音優勢の言語かどうかが一つのポイントだそうだ。

日 本語とスペイン語は、どちらも母音主体の言葉だから、感性が一緒なんじゃないかとも思うが、あのフラメンコの歌声もタンゴも日本の演歌もそれぞれ明らかに 違う間があり、違う表現がある。言語の作りだけでなく、生活習慣や古来の文化が溶け込んでいるから、そんなものはよそ者には分からない。


最近タンゴをクラシックぽく優雅に軽やかに弾いたり、量産型のダンススタイルのような謳い文句で形だけ教えたり、実につまらない。

あれは社交ダンスみたいなもので、形式を楽譜やステップ表記のようなもので伝承効率を上げることに重きをおいているものだ。


タンゴを普及するというときに、そういう効率の良いものをやるのは簡単だが、もっとブエノス古来の本質をもちこむことはとても難しい。ブエノススタイルを形だけを真似て大成できる人は一握りだし、そこに疑問を感じるのが日本人として当たり前なんだと思う。
そして日本人としてタンゴをソシャクしていくことが、本当はタンゴの真の普及なんだと思う。

2010年11月17日水曜日

タンゴ寿司

今週いろいろ考えたことをまとめて、
タンゴ寿司を作ってみました。


1.はじめは、何だかモヤモヤとしていました。

タンゴの元となるものは、ブエノスアイレスの場末な港町で生まれたといわれています。

2.やがて、タンゴ寿司のしゃりの部分が生まれました。

ギターやバンドネオン、そして男と女を主人公として、タンゴとして形作られました。

3.タンゴ寿司が大きくなる糧となるネタができました。

劇場での演奏や、レコードの配布、歌詞の大衆化などによって、タンゴが普及しました。

4.タンゴ寿司はどんどん大きくなり、黄金時代を築きました。

ブエノスアイレスでは多くの人がタンゴを楽しみました。

5.タンゴ寿司は、今でも大きくなっています。

いまやタンゴはアルゼンチンだけでなく、世界どこへいってもあります。





外伝(日本編)1:タンゴ寿司は日本にもやってきました。

音楽、ダンス、それぞれの伝道師がやってきて、日本にも根付きました。

外伝(日本編)2:日本ではタンゴ寿司のネタが大きくなりすぎました。

日本ではみんなちょっと商売っ気が走りすぎました。

外伝(日本編)3:でも今ならきっと大丈夫!日本のタンゴ寿司をこうしましょう。

日本にタンゴの楽しみが伝わって、日本でもタンゴが普及していくかも。

2010年11月14日日曜日

ソウルのミロンガと東京のミロンガ

今週はじめにソウルに行ってきました。
3泊4日の短い旅行でしたので、3箇所しかミロンガに行けませんでした。

なるべく普段着のミロンガinソウルを見ようということになりました。

前日までタンゴウィークがあったことと、立て続けに香港でタンゴウィークがありソウルからダンサーが流出していたこと、2点があり、必ずしも普段着ではなかったことと思いますが、いくつか目についた差異があったのでインタビューを交えて分析をしてみました。

正直ソウルのミロンガがどんなところか、なにやらストイックに黙々と踊る人が多いらしいという噂を聞いていましたが、結果的にぜんぜんそんな感じではなく、一言でいうと、ブエノスよりもブエノス風な感じ?

そういえば、10年くらい前にファンギダがアーツシティをはじめた頃の雰囲気も、こんな感じだったかもしれません。東京のミロンガは今何故こうなっちゃったか?考え時かと思います。あるミロンガ主催者に言われていましたが、本当に危機感を持ちました。


A) 同じこと、違うこと

(同じだと思われること)
 +毎日ミロンガが開催されている
 +複数の場所でミロンガが開催されている
 +仕事帰りの人でにぎわっている

(必ずしも東京ではそうではないこと)
 +コルティナがかかる
 +タンダで類似した曲が分けられている
 +選曲は40年代~50年代がほとんど
 +入場料は1000円以下である
 +DJが誰であるか分かる
 +DJに薄謝を払っている
 +店長とオーガナイザーは違う
 +オーガナイザーとDJは違う
 +生演奏がない
 +デモがない(一部のミロンガではあるらしい)
 +英語で会話できる
 +男性が女性の前に行って踊り始める

(違うこと)
 +初心者が見当たらない
 +ぶつからない
 +ちゃんと反時計回り
 +追い抜かない
 +踊り終わったあとに、エスコートして戻る
 +明るい
 +全ての人が平等に同じ金額を払って入場する
 +ドリンクやスナックのセルフサービスではない
 +20代・30代がほとんど
 +カベセオに女性が応じる
 +女性は目線で合図を送ることがあっても、誘いにいかない
 +カップルで参加する人が少ない


B) 初心者が何故見当たらないのか?

そこで、居酒屋でソウルの熟練ダンサーに聞いてみました。
二つ理由がありそうです。

・初心者には8週間程度で基本を教わる、速習コースがある
・初心者向けのミロンガある

技術だけでなく Codigoを叩き込まれるらしいです。
だから、技術だけでなくそういうところを大事にするダンサーが多かったですし、だめなものにはNOと言える雰囲気がありました。
東京で踊っているのと同じように踊ると、ブーイングくらう事間違いありません。

ただし速習コースと言っても、ソウルには「タンゴの先生」という職業がないらしいので、ベテランダンサーが手取り足取り教えるらしいです。


C) 東京の言い分

とはいえ、東京はソウルのミロンガよりもいくつかの点で多様化が進んでいると考えられるので、
差異の要因となりそうな、ソウルと東京との背景の違いを、私の独断と偏見でピックアップしてみます。

・東京は物価が異常に高い
・東京には職業ダンサーが存在する
・東京は他の娯楽も高い
・パフォーマンスを楽しむ人が多い
・カップル化が進んでいる
・ダンススタイルが多様化している
・いわゆる黄金期以外の曲でも踊りなれている
・古典タンゴや新しいタンゴを普段から聴きなれている
・他ダンスとの交流が進んでいる
・社交ダンスのサロンが浸透している
・時間とお金に余裕のある定年後の世代が多い
・時間とお金に制限のある主婦が多い
・タンゴ楽団が多い
・DJというよりCDをかけ流すミロンガが多い


D) ソウルのダンサーに楽しんでもらえそうな東京のミロンガ

ソウルのダンサーに、東京にも踊りに来てくださいと言ったものの、
よくよく考えてみたら、ソウルの人が楽しめるミロンガって、東京にあるのかな?
と、思わず言葉に詰まってしまいました。名古屋がお勧めだよ。と思わず言ってしまいました。

・価格とスタイルが近いミロンガ
・デモや生演奏が入ったミロンガ
・プロの先生が開催しているプラクティカ

みたいなところを吹き込んでみましたが、
もっと開催趣旨などを明確に表記していくのは、私のようなカレンダー屋の仕事でもあるかなと。


E) ソウル化へ向けた個人的な提案

初心者向けの速習コース、
ぜひプロの先生方にもっと力を入れてほしい分野です。

速習レッスン、お知らせ頂ければ、カレンダーに目立つように掲載しますので
post@fantango.jp 宛か、mixi メッセージでお知らせください。

ベテランの方でも断片的に抜け落ちている Codigoの講義なんかウケルような気もします。



☆ソウルのミロンガ

ちなみに、足を運んだのは以下の3つのミロンガです。

1日目(月曜日) El Tango Cafe http://goo.gl/maps/5vBF
2日目(火曜日) Tango O Nada http://goo.gl/maps/XLgG
3日目(水曜日) El Bulin http://goo.gl/maps/jzNw
他に、Tangueria del Buen Ayre、Atanicheという有名なミロンガがあるそうです。

2010年10月15日金曜日

タンゴのDJに思うこと’2010

前置きはさておき、
タンゴのDJというのは、なかなか奥深い。


そもそも他人の心の奥底をのぞいて、
あそこで踊っている二人の踊りたい曲をかけてやろうなどと
おこがましい野望を抱いてはいけない。


曲と人を知る、そしてタンダを知るということではないかと、今は思う。



<曲と人を知る>


2008年のはじめに「バイラブレ仮説」というのを書いていた。

バイラブレ仮説
http://sacadaenborde.blogspot.com/2008/01/blog-post.html


ここで前置きで述べていることが、少し最近見えてきた。

「踊りやすい」という表現は主観的なミクロな概念であって、
本来一概にどれがどうという話は出来ないはずなのに、
なんとなく共通認識として「踊りやすい」というマクロな概念となる。


どういう人が、どういう曲を、どういう風に聞くか。

現象は少し具体化する。


今考えているのは、次の3つ。

1.適度に、単調な曲




まったくの初心者はメトロノームが一番踊りやすいだろうが、
それなりに踊れる人は、複雑すぎず、単調すぎず。というラインに落ち着くだろう。


2.適度に、動きやすい曲





簡単のため、テンポだけの話にしている。
タンゴの曲平均的には、「半拍で一歩」「一拍で一歩」の感覚がとても大切だと思う。


3.適度に、聞きなれている曲


聞きなれていること。
というのは、それこそ完全に各人の経験なんじゃないかとも思えるが、
私はこう考えることにしている。

ある人があるミロンガに行くということは、
それなりに、そこのミロンガの選曲傾向が好きで、そのへんの音楽に聞きなれているものだ。


補足:日本のミロンガを見ると、このような3タイプがあるんじゃないか、という図。


この人は、あのミロンガでよく見かけるから、こっちの選曲が良いかもしれない。
でも、踊っている相手は、あちらのミロンガで見かけるなぁ。はて?どっちにするべか?

などと延々と思考を続けて、やがて考えが収束するようなところが、ねらい目だ。



<タンダを知る>

さて、短めにまとめるつもりがすっかり前置きが長くなってしまった。
なので、以下、尻切れ気味。


DJやタンダについての文献は多々あるのだが、
基本的なポイントは踊りと同じで、サプライズばかりじゃ疲れるし、無難すぎるのも飽きる。


最近いろいろ試行錯誤してみて、次のようなタンダの分類ができるのではないかと勝手に提案する。


1) Wake-up! Tanda(仮)


「そろそろ起きなさい」という意味を込めて命名。

靴を履いたり、体をほぐしたり、挨拶をしたり。
入場から15分は、なんだかんだ言って割と気分が乗らないもの。

そんな時にかけるタンダ。
あ!踊らなきゃソンソン。
動き出すきっかけになりそうな、会話を殺さない明るめの曲で、有名な曲を重ねるのがよさそう。

メロディ重視よりも、リズム重視の方がよさそう。



2) Transition Tanda(仮)

傾向を変えるときのタンダ。
で、命名。

違った傾向のタンダに速やかに移りたいときや、
生演奏・イベントなどが挟まるとき。

少し、今までと違うシグナルを混ぜる。

展開によって、選曲もいろいろ。
個人的にはトリオとかカルテットくらいの軽奏が好き。



3) Breathy Tanda(仮)

とにかく、動きたい!
そういう輩がいるかどうか。よく見ていないといけない。

いるなら、とにかくハァハァ言わせてしまおう。ほととぎす、ってことで時々使う。

カンドンベとか、速いワルツとか、フォエバータンゴやコロールタンゴみたい系統もこれかも。



4) Calm-down Tanda


しっとりと行きましょう。
メロディ重視の曲とか、30年代前半よりも古い感じ

エレクトリカなんかは、実は割りと落ち着いたりするので、使いどころかも。

生演奏の後なんかは、場合によっては一旦冷やす。



5) Collector's Tanda(仮)

日本だけじゃないと思うけど、
「今日は何だか持ってる曲ばかりで面白くないね」とかいう方がたまにいる。

そういう人には、基本的にコレクションでは適わない。
適度に、コレクター嗜好のミロンガでよくかかる選曲をちりばめよう。



6) Degeneration Tanda

縮退傾向のタンダ。とでも言うべきか。

そろそろムードを変えていきたい、とか、そろそろ客層を若めに。

などと狙っていくよりも、不本意にこういう事態が発生していることが稀に見られる。

明らかに、一部の客層の逆鱗に触れるタンダ、しかも4曲。
ということで、一部の人たちに、ほたるの光がかかっている気分にさせてしまうタンダ。



7) Last Tanda


ラストタンダは永遠に。

とにかく、残っている人向けに、とっておきの玉手箱。


個人的には最後にクンパルは大嫌い。
かと言って途中でもかけづらい。




具体例は、またの日に。

2010年7月31日土曜日

特別寄稿『ブエノス風ミロンガ』
日本のミロンガにカベセオを取り入れる試みについて。10TANGOリニューアル特別企画。


10TANGO.COMのリニューアルを記念し日本のミロンガの現在にカベセオ(Cabeceo)を取り入れる試みついて、日本でアマチュアながらイベント・オーガナイザー、ダンサー、ミュージシャンとしてタンゴ界を見つめる阿部修英氏が記事を特別寄稿。

【特別寄稿:ブエノス風ミロンガ】


タンゴを愛する皆様、こんにちは。

2010年7月31日に「ブエノス風ミロンガ」というミロンガを開催しました、阿部修英と申します。


「ブエノス風ミロンガ」は、第1回を今年3月1日に田園調布で開催し、今まで日本では馴染まないと考えられていた カベセオ(目で相手を誘い合う風習)をゲーム感覚で取り入れた新しいミロンガとして大きな反響を呼びました。今回は、さらに少し工夫をこらして、第2回です。


ミロンガというものはブエノスアイレスで生まれたものですが、何故わざわざ「ブエノス風」と呼ぶのか?という方もいらっしゃるかもしれません。それ から、そもそも今は多様化しているタンゴを「ブエノス風」などと一括りにするのは不勉強だという方もいらっしゃるかもしれません。


■『ブエノス風』とは?

この企画「ブエノス風ミロンガ」で表現したい「ブエノス風」なミロンガとは、ブエノスアイレスにおけるミロンガの風習のうち、敢えて日本では浸透し ないと考えられているものをゲーム感覚で取り入れたミロンガとお考えください。ブエノスアイレスで行われているものを、ただブエノスアイレスのものだから と受け入れるのではなく、何故それがブエノスアイレスで行われているかを皆で考えていきたいという意味での試行実験です。


日本でアルゼンチンタンゴと言えば、古くからタンゴ音楽・歌謡曲としてのタンゴ歌曲がクローズアップされ、一方でタンゴダンスといえば、そのような コンサートの途中で踊られる派手なショー的なタンゴが、圧倒的に多くの人に印象付けられてきました。もちろん、サロンとして踊られるタンゴもありました が、どことなく以前から日本人に馴染みがあった社交ダンスに似た様式やマナーが取り入れられてきました。アルゼンチンから持ち帰られた「タンゴ」は、それ ぞれの形で日本人にあった形で発展してきています。


近年の日本のミロンガを雰囲気で分類するならば、①小さな空間でホームパーティのような雰囲気を楽しむミロンガ。②お昼や夕方などに開催される、カ ジュアルな雰囲気で気ままに踊るミロンガ。③ホテルのラウンジやクラブなど、都会的な非日常を演出することでエレガントさを強調するミロンガ。①~③それ ぞれでドレスコードや雰囲気はかなり異なるものの、様式やイベント内容は画一的であり、マナーについては一概に海外に比べてかなりラフです。選曲について はタンダやコルティーナを組まないミロンガが一般です。


あまり評判の良くないマナーに関して、海外から来るダンサーが困惑することの一つに、ミロンガにおけるダンサーの誘い方があります。日本では、海外 のどこのミロンガでもあることですが、誘う際に相手の目の前まで行って誘います。ただ日本人の性格的な問題もあるのか、踊り相手から誘われても「お断り」 することは稀です。それだけに、基本的に断られないことを前提に行動するダンサーも多く、場合によっては承諾も得ないまま相手の手をとって踊り場まで引っ 張って行ったり、目の前でOKするまでずっと待っていたりする場合もあります。このようなこともあり、誘うときには一般に必ずしも誘われた側が希望する相 手ではなくても踊りが成立しています。また、踊り終えた時に女性をエスコートして帰るようなことも稀です。


近年、日本のタンゴ演奏者やタンゴダンサーが海外でも活躍すると共に、ブエノスアイレスなど世界のタンゴについての情報が日本にも詳細に伝わってく るようになりました。私の身近にも、タンゴの全体像や本質、演奏についての好みや曲の歴史についての議論、そしてミロンガについても、選曲、誘い方や踊り のスタイルやマナー、服装、雰囲気などについてなど、より多様な目線で良い物を追求しようという機運が高まってきているようです。




■カベセオ


そんな中、「ブエノス風ミロンガ」が「踊りたいと思う曲を、踊りたいと思う相手と踊れるような仕組み」として注目したのが、ブエノスアイレスの一部のミロンガで採用されているカベセオという合意のプロセスでした。

+「ブエノス風ミロンガ」の舞台づくり

桑原和美先生がカベセオが行われる様を表現されています。

「部屋の隅と隅に座った男女が、赤い糸で結ばれているかのように近づいていき、踊り場でめぐり合う」

そんなロマンティックな情景を、私たちは思い描きながら、今回の舞台を作りました。

このミロンガでは、日本の通常のミロンガでは行われない風習カベセオを採用していることで、相手との接し方がいつもと大きく変わりそうです。カベセ オを如何に成功させるかということ、そしてカベセオで男女がめぐり合った瞬間を、如何に美しく演出するか?そこを徹底してこだわることにしました。

カベセオを成功しやすくするために「ブエノス風ミロンガ」では、日本のミロンガでは今まで見られなかった二つの工夫をしています。

一つ目は、座席を男性席・女性席に分けたという点です。かなり極端な座席になりますが、これはブエノスアイレスで実際に行われているミロンガのレイ アウトを参考にしました。二つ目は、日本独特のワイン置き場を男女別に配置した点です。ミロンガの片隅にワインやソフトドリンクなどが置いてあることは日 本ではよく見られて、海外ではあまり見られないことです。日本では、ダンサーの多くがワイン置き場にたむろして、そこでもまた断りにくい状況が発生してい ます。この2点で、踊るためには基本的に座席からカベセオをして誘わざるを得ない状況を作ってみました。ただし、前回採用したモッソ(いわゆるレストラン におけるボーイ)については、人手がかかる割りに効果的でないという意見があり、今回は採用していません。


また、カベセオで男女がめぐり合った瞬間を美しく演出するために、次のような5つのこだわりを持ちました。

1.エスコート

今回はゲーム感覚での異文化体験を楽しんでいただくという目的で、カベセオが成立したら男性が近くまでエスコートしにいき女性を誘い、そして、踊り 終えた後にまた元の席にエスコートしに帰るということをルール付けました。後から知ったことですが、日本以外の海外のミロンガでは、このような光景は日常 的に見られるそうですね。

お客様が入場する時には、私どもスタッフが座席までエスコートさせていただきました。

2.選曲

選曲としては、Orquesta Tipica VictorのAdios Buenos Aires、Osvaldo FresedoのBuscandote、Jose Garcia の Esta Noche de Lunaなど、古典タンゴの中でも比較的明るい曲調で、日本の皆さんにも馴染みのある曲を中心にセレクトしました。コルティーナの長さとしては、エスコー トの時間を考慮して、少し長めの1分5秒(曲を1分+空白5秒)と設定しました。

3.色使い・明るさ・アート

日本では、ミロンガはできるだけ黒く真っ暗な部屋で行うものだと考えられていますが、カベセオがしやすい明るさを考慮して、部屋の中をシャンデリア に吊るされた白熱灯でやさしく灯しました。そして、明るくなることで目に入ってしまう、座席など会場の備品に、男性席側を黒、女性席側を赤、カップル席に 青という、色使いで統一しました。

4.一体感・距離感

カベセオを採用したミロンガにふさわしい一体感と距離感を醸し出すための空間作りに徹してみました。踊り場の四方を机で囲い、その距離は出来るだけ近く、男女が見つめあいやすいようにしました。

5.サロンのエチケットに関するルール

最近、日本ではダンスのエチケットに関する議論が盛んになっていますが、今回のミロンガでは敢えてエチケットに関しては言及せず、自然にみなで作り上げる雰囲気を大事にしました。必要あれば次回以降にルールを設けようと思っていましたが、結果的には必要なさそうです。


■ミロンガの様子


ミロンガには主旨をご理解いただいた60人もの皆さんが遠路はるばる駆けつけて下さいました。


一番のイベントにおける懸念点であったカベセオについてですが、「カベセオをする」という意識をもちさえすれば、日本でもカベセオが成立できるということが分かりました。その点では成功と言えると思います。


ミロンガにて今回の企画についてアンケートを実施し、回収率は約50%でした。多くの方が、あのようなミロンガもあって良いかもしれないという意見をお持ちでした。


肯定的な意見としては、カベセオのお陰で踊ったことがない方とも踊ることが出来た、あのシステムのお陰か分からないがフロアーマナーがそこそこ良かった、 「カベセオ」というと誇張しすぎだけれどその精神を活かした方法を取り入れていくと良いかも、席があると落ち着く、フロアー全体が明るくて良かった等々。 否定的な意見としてはやはり誘いずらい、目が合わない、対面はやり過ぎでは、踊る場所が狭い、会議室の机はムードがないというもの。が挙げられました。カ ベセオでなかなか目が合わなくなることについて、「断られた」と感じる方もいれば、カベセオ自体が「難しい」と感じる方もいました。多くの方から、慣れる ことが重要だという意見が得られました。


最近、コルティーナを採用するミロンガが増えてきて、次のような事態が発生してきました。コルティーナで一旦踊り場から座席に戻ることは良かったの ですが、そのタイミングでお目当てのダンサーの元に殺到するようになりました。このような状況に秩序を齎すためにはやはり、カベセオに限らずともカベセオ に見られるような男女双方から合意を得て踊り始めるという心構え、があれば良いなと、一人のダンサーとして思います。そして今後、日本のミロンガでカベセ オが成立するようになるかは分かりませんが、男女が心地よく踊るために、少なくとも合意があるのはもちろんのこと、踊る相手への敬意や共感などがミロンガ 全体に溢れ出すようになると素敵だと思います。次回の「ブエノス風ミロンガ」では、そのような雰囲気を探求していきたいです。





■これからの可能性


今の日本のタンゴにおいては、おおまかに3つのタンゴ普及活動があると考えています。

1つ目は、タンゴへの間口を広げていこうとする活動。このような活動は今活発に展開されていて、既にとても多様なものがあり、どんどん芽を出している活動があると思います。


2つ目は、選手権やパフォーマンス発表会など、技術論や方法論を成熟させる目的の活動です。これらには、明確な共通の指標があって、これに向けて今 多くのダンサーが技術の習得に励んでいます。2年連続で世界チャンピオンが生まれるなど、その活動は世界でも着目されています。


3つ目は、既にタンゴに慣れ親しんでいる人のため、継続的にタンゴを楽しむための土台を作ったり、新しい楽しみの創出をするような活動です。


日本のタンゴに足りないものは、この中で1つ目および3つ目の活動だと思います。特に3つ目の活動については、たくさんの人がタンゴに興味を持って くれた後にタンゴに根付いてくれるために重要な受け皿だと思いますし、それが今はまだ正しく機能していない面があると思います。だから今回のミロンガに関 しても、単にマナーやエチケットを改善したいということだけでなく、何故それを改善したいのか?ということを一人一人が考えていけることが大切だと思いま す。私個人の考えとしては、タンゴをもっと楽しもうとする気持ち、そしてタンゴ自体の面白さを追求していきたいという気持ちがあれば、それは自然に生まれ るものだと思いますし、それは必要以上に束縛を与えるものではないはずだと思います。そういう気持ちを持って、今後も着眼点を少しずつ変えながら、タンゴ の楽しさやエッセンスをアマチュアの立場から追求していけるように、企画を行っていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

最後に、当日のお手伝いや沢山参考になる情報をいただきました BakutangoのBakuさんTeresaさん、当日のお手伝いやいくつもの建設的なアドバイスを頂きましたサニーさん、ブエノスアイレスからカベセ オに関する動向や雰囲気に関する貴重なアドバイスを頂きました Tangueros Unidos のチノさんミホさん、そして妻の朋子に、この場を借りてお礼申し上げます。


文責:阿部修英



阿部修英氏: 
コミュニティ『fantango.jp』 を主宰。fantango.jp では、日本から世界23ヶ国語で、タンゴを踊る人、弾く人、歌う人のための情報を発信する。
日本では、東京を拠点にダンスの練習会やミロンガの開催、歌詞の勉強会やタンゴに関する座談会などの企画などを行なう。



2010年4月26日月曜日

聞くだけの人、踊るだけの人

ここのところ、日本タンゴ・アカデミーのホームページを作ろうというプロジェクト?に参画させていただいて、どのようなWebサイトが日本タンゴ・アカデミーにとって良いのであろうかと考えているところです。

私自身はどちらかというと「アルゼンチンタンゴを盛り上げたい」という漠然とした気持ちがあって、ここしばらくはその意思を幾許かのボランティア活動で表現しているのですが、一方で「日本タンゴ・アカデミーを盛り上げたい」ということになると必ずしも私のやりたい事とも限りません。

まずは「日本タンゴ・アカデミーとは何ぞや?」ということを追求せねばなりません。

飯塚氏(現日本タンゴ・アカデミー副会長)によると、「日本タンゴ・アカデミー」というのは次のような2つの側面があるということでした。一つには、日本には全国的な規模でタンゴ愛好家が募る愛好会が無い、という点があるという点。決して我等が総本山と称する気持ちは無いという点を強調しておられましたが、日本で行われている愛好家活動をいい意味で束ねる貴重なグループであることは疑いようもありません。もう一つとしては、タンゴの祖国、アルゼンチンでのタンゴ・アカデミー本家より、日本でもタンゴ・アカデミーを結成したらどうか?という助言があり、活動を続けているということです。現状、日本でのアカデミー活動は、アルゼンチンでのそれとはやはり人数も規模も違い他の団体との接点も少ないでしょうという点で、さらなる発展を求められています。ただ言えることは、「日本タンゴ・アカデミーを盛り上げよう」とする志は、一人の愛好家として「アルゼンチンタンゴを盛り上げよう」とする志としても大きな意義があるだろうと思い、お手伝いしていこうと決めました。

日本タンゴ・アカデミーのWebサイトについて、先日の飯塚副会長と執筆家の山本幸洋さんを交えた話し合いでは、短期的には日本アカデミーの活動自体を知ってもらう場、そして世界的にも有数のコレクションをライブラリとして提供する場とし、長期的にはもっと戦略的に演奏家・ダンサーなどを巻き込んで多面的に活動をアクティベイトしていく方向性ということで意見が一致しました。将来的には、様々なパーツに分かれて独立して発展していっている「タンゴ」というものを、決して一つの定義に限定せずに多様なタンゴを互いに補完しあえる立場というのが望ましいのではないかと思います。

その他いくつもの議題があり、とても一晩では語りつくせるものではありませんが、一つ、個人的に大切だと思われたことがあったのでメモ代わりにここに記します。

それは「日本タンゴ・アカデミーには聞くだけの人が多い」という事実についてです。アルゼンチンのタンゴ・アカデミーなんかはほぼ100%聞くだけの人だから日本もそれで良いのではないか、という意見もあるようですが、先ほど申しましたとおり、日本のアカデミー活動はもっと多面的でありたい。

聞くだけの人、その反対語は何かと言いますと、まぁ聞かない人だろうなどというへそ曲りな人はほっといて、踊る人とか演奏する人とかっていう感じです。聞くだけの人という種族には、音楽を聞いて、さらには文化的側面だけでなく経済的にも地理的にも政治的にも深く追求していく人がいます。

一方で踊るだけの人、赫赫という曲が何年にどういう時代背景の中で○○というレーベルでダレダレが出した、なんて情報は一切気にせずに、踊ります。踊る人には、踊る人なりの興味があります。聞くだけの人に比べると、踊るだけの人のタンゴへの思いのほとんどは観念的なものです。たぶん演奏するだけの人も、自分には深く分かりませんが、それはまた演奏者独特の視点があるはずです。三位一体、というのは、つまり三者の心を知るということだと思います。

日本タンゴ・アカデミーが、聞くだけの人以外にも、特に今増えている踊る人や演奏する人、やがては今までタンゴさえも聞いたことがないような一般の人をも巻き込んでいくために、そのような発想・視点を意識しておくべきだと思われます。

特に、聞くだけの人、踊るだけの人、大きな違いは能動性にあろうと思います。

今まさにタンゴを踊れる人、タンゴを演奏できる人、自分でやらないと気がすみません。

要するにレコードコンサートで聞くだけでは満足できません。たとえば討論やワークショップのように少しなりとも参加できることが大切だと思います。

聞くだけだったとしても、あわよくば自分の肥やしになるまで還元できればと思っています。どこまで会として親切にすれば良いか知りませんが、出来るだけ共通認識の出来る接点が増えると良いと思います。

また、いくら共通認識を追及しようとしても、元々文化的側面や歌詞などを知らずとも踊りや演奏は可能ですし、それを知っているかと言って各個人がよりハッピーなタンゴを追求できるとも限りません。大切なのは、固執せず、強制せず、否定せずに、立ち位置を明確にしていく事だと思います。