2011年1月22日土曜日

タンゴの間

空間的な間、時間的な間。

ギターを習ってみて感じたこと。
ギターで作った音楽にはギターの間がある。

サンバを習ってみて感じたこと。
サンバ・ノ・ぺが作った音楽にはサンバ・ノ・ぺの間がある。

日本の古来音楽だって、タンゴだって、フラメンコだって、由来があるものには、そういう間があるはずだ。


そういうものが大事。


そしてそれを解釈する側がどう感じてどう思うか。

日本人だから日本人ならではの生活や言語による学習にもとづく生理的な反応は覆せない。
無理に真似しても心技体が一致しない。

日本人だからタンゴはやるなと言ってる訳ではないが、ブエノスで起きていることを形だけ真似するのは、結果から見ると格好悪い。

日本人らしい表現があって然るべきだと思う。



角田忠信さんという人の書いた「日本人の脳」という本には良いことが書いてある。ある音を右脳で捉えるか、左脳で捉えるか。母音優勢の言語かどうかが一つのポイントだそうだ。

日 本語とスペイン語は、どちらも母音主体の言葉だから、感性が一緒なんじゃないかとも思うが、あのフラメンコの歌声もタンゴも日本の演歌もそれぞれ明らかに 違う間があり、違う表現がある。言語の作りだけでなく、生活習慣や古来の文化が溶け込んでいるから、そんなものはよそ者には分からない。


最近タンゴをクラシックぽく優雅に軽やかに弾いたり、量産型のダンススタイルのような謳い文句で形だけ教えたり、実につまらない。

あれは社交ダンスみたいなもので、形式を楽譜やステップ表記のようなもので伝承効率を上げることに重きをおいているものだ。


タンゴを普及するというときに、そういう効率の良いものをやるのは簡単だが、もっとブエノス古来の本質をもちこむことはとても難しい。ブエノススタイルを形だけを真似て大成できる人は一握りだし、そこに疑問を感じるのが日本人として当たり前なんだと思う。
そして日本人としてタンゴをソシャクしていくことが、本当はタンゴの真の普及なんだと思う。

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