2015年2月8日日曜日

ダンサーから聴く音楽祭~2015年1月

日本でも、ミロンガのようなダンス場では、おなじみの楽団のおなじみの曲がかかったらダンサーは待ってましたとばかりに相手を誘って踊りに耽るものだ。

表立った言葉は出なくても、ダンス場のあのときの一体感はミロンガの醍醐味であって、ダンサーにとってはタンゴに求める最も美しい瞬間だろう。そこでは、懐かしさであり良心であり悲しみや喜びであり、ひとつの音楽や歌を通して共感するような何かを媒介としてダンス場を楽しむことができる。

こういう時の共感した場が盛り上がるというような、この現象を表現するにふさわしい言葉を、しばらく求めてきたのけれど、それはカデンシアなのかグルーブ感なのか、はたまた日本人にとっては祭りやカラオケで時折得られる一体感や甲子園での阪神タイガース応援みたいなものなのか、未だにふさわしい言葉はみつからないけれども、その場の濃厚な空気の震えみたいなものが、そこの場にいる一人ひとりによって高めあわれていくことで、そんな瞬間が確かにある。

もちろんコンサート会場でもそれに似た一体感が得られることがあるし、それはダンス場の人たちのやり取りとは手法が違うにせよ、すぐれたクラシック音楽やロックやジャズや民族音楽なんかを奏でる奏者とそれを求める聴衆の間で創られていく雰囲気。そんなものをコンサートやライブに求めていくもの。

だけれども、ダンス場のタンゴダンサーがタンゴ音楽に求めるものと、タンゴコンサート会場の聴衆が求めるタンゴ音楽が違うから、タンゴのダンス場で得意満面にピアソラを演奏されても盛り上がらないし、そんな状況をぼくらは何百回も見てきたし、生演奏なんかよりCDをかけた方がマシなんだと思ってるダンサーを多く知っている。もちろんタンゴを聴くためだけで踊らない人がダンス場に金を払って音楽を聞きにくることなんかもない。ダンス場とコンサート会場では、そもそも能動性・客観性・既知性・マクロ性などに大きな乖離があるので、元々仕方ない。そういう別々のものとしてヒトククリにして終わりなのか?

ダンスと歌と生演奏の三位一体・そんな架け橋を夢見ていた、石川浩司さんとお話をしたときからもう10年近くなる。せっかくタンゴ音楽で独自の長い歴史を持っている日本で、なぜこんなことになっているのか。

大きな希望、それは、なぜブエノスアイレスから来た楽団はダンサーが聞いても違和感無くダンスを思い描きながら聴けるのか?ということ。そして今日本でもダンス場で引っ張りだことなっている楽団もある。

今日は、ダンサーの目を通して、とあるコンサートを聴いた時に思ったことを書いてみようと思っている。



2015年1月12日、6楽団と多くのタンゴファンがかけつけてやまと郡山市で行われた奈良タンゴ祭。

主催のくるみさんや発案者のバンドネオンの北村さんのお父様を中心に、やはり企画に1年以上かかったそうなのだけど、やまと郡山市のバックアップもつき、ホールいっぱいに集まった聴衆からの大喝采に終わった。3時間あっという間で、次回以降も大いに盛り上がるだろうと、勝手に期待してみている。

楽曲的には、トラディショナルタンゴよりも現代タンゴが多めで、楽団によって、聴衆との掛け合いの違いが見られて面白かった。それぞれの演奏についてはラティーナに掲載されている清川くんの記事をごらんいただいてると思うので割愛するとして、私なりのダンサー目線で書けることを書いてみよう。

今回は、ダンサーにはおなじみの楽団や奏者が出演されていたこともあって、タンゴの楽曲の中にあるそういうグルーブ感がコンサート会場でどう展開されるか、ということにも興味があって、聴く人・ダンサー半々のモードで楽曲を聴いてみることにした。

ダンサー気分で聴けそうな楽団や曲はそう聴けば良いし、そうでなければ純粋に演奏や歌曲として聴けば良い、というだけ。純粋に歌曲として聴くならば、それぞれの楽団、個性とメッセージがあって楽しい。それがオムニバスで6楽団も盛りだくさん、すばらしい。


ところが、ダンサーとして聴くときには何故その感覚がそれを邪魔するのか?
素直にその良いと思える感覚、たとえば表現や技巧をそのまま評価できなくなるのか?

変な言い方になるけれども、ダンサーとしてタンゴを聴くときと、純粋に演奏としてタンゴを聴くときに何が違うのか?ということ。

当たり前のことだけれども、念のため言葉にしてみるならば、ダンサーが刻みや旋律を聞いて、フレーズの流れや音の飾りなどを鑑みつつ、ダンスを踊るリーダがフォロワーの動きに変換する。リズムを踏み、加速度を呼び、回転を巻き起こし、時には静止をし、ダンス場との共鳴を育む。

というような一連のダンスロジックを作るために、プラスになるオカズやマイナスになるお邪魔なものがあるということ。


とりあえず、先入観を捨ててダンサー気分で聴いてみてハッとして目覚めてしまった瞬間を挙げてみよう。

・リズムが途切れる
・単調でブレイクが少ない
・ソロが長い
・展開が読めない
・遅すぎる(または早すぎる)

逆に言ってみれば、そんなに超絶技巧でなくても良いので、こういうポイントさえ無いように編曲しておけば、そんなにダンサーとしても違和感が無かったのではないかと思える。

また細かい部分はいつか書くとして、以前、ダンサーとして楽しむための音楽について、三つの条件を挙げたことがある。(2008年)
http://sacadaenborde.blogspot.jp/2008/01/blog-post.html

1)既知であること
2)飽きのこないこと
3)身体的に踊りやすい

この2と3なんかは、上にハッとして目覚めてしまった瞬間と通ずるところがある。

1の既知性の基準としては、仮にコピーかオマージュか(またはパロディか)という分類をするならば、ダンサーは全く初めて会うようなダンサー同士で踊ることを想定するので、一概によく知られた音楽の徹底したコピーを求めている。また、一部の気の合うダンサー同士については知識共有をベースにオマージュ形式の楽しみもあるかもしれない。

トラディショナルタンゴを題材としている曲について、特にプロ楽団については、ダリエンソやディサルリスタイルと言われるいくつかのコピーバンドの演奏を除けば、ほとんどは少人数編成で独自の編曲を行うオマージュ演奏となっていると考えられる。今のデュオやトリオ形式でトラディショナルタンゴをダンサーに咀嚼できるように編曲するのは難しいだろうけれども、そういうものに巡り合える瞬間はやはり感動だ。

楽団が演奏する楽曲がどんな曲のどんなオマージュなのか。どんな楽団の持ち味を表現して、楽曲やそのルーツをどういう風にレスペクトしているのか。はたまたダンサーに対してどんな盛り上がりを期待しているか、そういうところが専ら楽しいところなんだろう、と思うし、それがタンゴが音楽として踊りとして歌として成り立つ奥深さなんだと思う。

ただこれらはダンスをやっているからといって身につくものではなく、時には口ずさみ、歌い、色々な人生のバックグラウンドをおかずにして、人それぞれの解釈でタンゴを骨までしゃぶって楽しむということなんだろう。

さらにピアソラや現代タンゴのオマージュを、ダンサーがどう楽しめるか?というのは、トラディショナルタンゴとは背景が違うから、一概にダンサーの感覚でどこまで受け入れて楽しいものなのか定かではないけれども、そこからやはり何か一歩踏み出す必要があるだろう。こういうこともやはり長くなるのでまた別の機会に書こうと思う。

奈良タンゴ祭のように複数の楽団を一度に並べて聞くような贅沢はそんなに味わえることではないけれども、純粋にタンゴを演奏として聴いているだけでなく、独特なタンゴの奥深さを嗜むためにふさわしいような、そういった今後の発展があれば、より良いと思うし、ぜひとも、今回運よくタンゴ祭に足を運ばれて、ダンスはまだ踊ったことがないという方がいらっしゃるならば、来年はダンスを少し嗜まれて、違ったタンゴの側面を垣間見ながらタンゴ祭を楽しまれてはいかがかと思う。

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